大判例

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東京地方裁判所 昭和48年(合わ)429号 判決

被告人 高橋養吉

明三二・三・五生 無職

主文

被告人は無罪。

理由

一、本件公訴事実は、

被告人は昭和四八年一〇月一日午後一〇時ころ、東京都葛飾区西新小岩四丁目一四番一五号金盛荘において、大久保浩次(当二六年)を殺害しようと決意し、クリ小刀(刃体の長さ約一二・五センチメートル)で同人の上腹部などを数回突き刺し、よつて、その頃、同所において、同人を上腹部大動脈貫通刺創により失血死させて殺害したものである。

というのである。

二、公訴事実および被告人の責任能力に関する判断は次のとおりである。

1  被告人の犯行

当裁判所の審理の結果によると次の事実が認められる。

被告人は肩書住居地のアパート金盛荘一階三畳間に居住していたものであるが、昭和四八年九月二五日隣室(四畳半間)に住む大久保浩次(当時二六歳)を窃盗犯人であるとして近くの交番に届け出た。被告人の訴える所によると「その前日二四日午後五時過ぎ頃大久保に留守を頼んで約二〇分間外出した間に、自室にあつた現金一一万五、〇〇〇円が盗難に遭つた。大久保がその窃盗犯人に間違いない。」というのである。

ところで、被告人には、中尊寺の国宝華鬘を盗んだという窃盗(および文化財保護法違反)の罪により昭和三〇年六月一三日仙台高等裁判所で懲役三年に処せられた前科がある。この裁判につき、被告人は、警察官、裁判官らが結託して無実の自分を罪に陥れたとの荒唐無稽な妄想を抱き、同四五年以降は再三にわたり右事件の再審を請求するなど、自己の無実をはらすことを唯一の生きがいとして生活していたものである。従つて被告人は、前記盗難により再審の裁判費用等の資金が失われ自己の無実主張を妨害されたと考えるに至つた。このため被告人は、右盗難の犯人と断定した大久保に対し激しい敵意を抱き、大久保を強く詰問するとともに、同月二五日から同月末にかけて数回にわたり派出所に赴いて右盗難の一件の解明を執拗に要求した。けれども、大久保は窃盗の事実はないと強く否定し、警察の対処もまた被告人の意に満たないため、被告人は大久保に対し、警察と結託して自己の無実主張を妨害する者として、憎しみと怒りを集中させ、ついには同人に対し殺意を抱くに至つた。

同年一〇月一日午後一〇時過ぎころ、前記金盛荘の自室で前記華鬘事件等に思いを廻らせていた被告人は、大久保が外出先から帰つてきた物音をききつけ、この際同人を殺害しようと決意し、かねて所持していたクリ小刀(刃体の長さ約一二・五センチメートル、昭和四八年押第二一四二号の一)を携え、外出先から帰室したばかりの大久保の居室に入るや、同室南側窓付近において、いきなり右クリ小刀で大久保の上腹部他二、三ヶ所を突き刺し、よつて、そのころ、同所において、同人を腹部大動脈貫通刺創にもとづく失血のため死亡させて殺害した。

2  被告人の犯行当時の責任能力

鑑定人保崎秀夫作成の精神鑑定書および証人保崎秀夫の当公判廷における供述、証人高橋龍三の当公判廷における供述ならびに被告人の当公判廷における挙措言動等および同人の司法警察員ならびに検察官に対する各供述調書を総合をすると、被告人は前記中尊寺国宝華鬘窃盗事件以来「自分は右事件につき無実であるのに警察、中尊寺、裁判官が結託して自分を罪におとしいれ抹殺しようとした。自分は生涯をかけてひとり断乎としてこれと斗う。」という被害妄想と好訴妄想を中心とする強固な妄想体系を形成発展させ、本件当時においてはいわゆるパラノイア(妄想病)の状態にあり、被告人の本件犯行は、大久保をもつて、冤罪をはらすことにすべてをかけている被告人に対する憎むべき妨害者として抹殺する他ないと観念した強固な妄想に支配された行為であつて、被告人は本件犯行にあたり自らの行為の是非善悪を判断しその判断に従つて自らの行為を制禦する能力を欠いていたものと認められる。

3  結論

以上に認定したところによれば、被告人の本件犯行は刑法三九条一項にいう心神喪失者の行為であるから、刑事訴訟法三三六条前段により、被告人に対しては無罪の言渡をすることになる。

三、なお、本件の特異性に鑑み、前項の結論に至つた経緯を若干補足する。

1  犯行について。

(一)  被告人の本件犯行は、前判示のとおり、被告人が大久保を現金一一万五、〇〇〇円の盗難事件の犯人と断定したことに直接の発端がある。けれども、本件全証拠によつても、大久保をその犯人と疑わせるに足る何の根拠もない。のみならず、右盗難自体の存否も極めて疑わしい。すなわち、被告人が昭和四七年一一月息子龍三のもとを出て単身金盛荘に住むにいたつた経緯および当時の所持金の額、生活保護を受けながらのその後の生活状況、右盗難事件被害申告の内容のあいまいさ、あるいは被告人が過去においても自己の無実主張の妨害者とみなした右龍三の妻に対し金一五万円の盗難の濡れ衣をきせて糾弾したこと、などを考慮すると、右盗難自体被告人の妄想の産物である可能性は極めて高い。

(二)  被告人は、本件犯行直前の大久保の行動について、捜査段階、公判を通じ(その内容にかなりの変遷はあるが)、「大久保が酒に酔つて帰つてきて就寝中の被告人の居室のドアを足で蹴り『表に出ろ』と怒鳴つた。」旨、あるいは「同人が文化庖丁をもつて金一〇万円を奪いにきた。」旨供述し、本件犯行の直接の動機は、右のような大久保の攻撃から自己の身を護ることにあつたと主張している。

しかしながら、当夜大久保がある程度酒に酔つて帰つてきたことはみとめられるものの、同人の平素の行状、性格、金盛荘における生活状況、本件発生の直前に実姉宅を訪れて打ち明けていた話の内容等から考えて同人が老令の被告人に対し右のような攻撃的振舞に及んだとは考えられない。むしろ同人は、盗難騒ぎの一件以来被告人を避けていたことが窺われる。その上に、大久保の両掌に防禦創が認められること、年令・体格においてはるかに劣る被告人が全く無傷で刺殺を遂げたこと、被告人が大久保を刺突した位置は大久保の居室の中央より奥であること(血液の飛散状況から明らかである。)等の事実は、いずれも被告人が供述しているような、本件兇行発生直前の状況が現実には全くなかつたことを示している。

犯行後まもなく行われた警察官による実況見分の際、大久保の遺体のすぐ傍らに、血に染まつた文化庖丁一丁(昭和四八年押第二一四二号の二)が発見されている。右文化庖丁は、以上に述べたところからみて、被告人の兇行当時大久保が手にしていたものではなく、たまたま大久保の居室に置いてあつたか、もしくは被告人がクリ小刀による刺突後にその場に持ち込んだもので、被告人が血に染め、大久保の傍らに置いたものと認められる。

(三)  被告人は大久保に対し、クリ小刀で致命傷となつた上腹部刺創を負わせた以外に、なお数ヶ所の損傷を負わせている。右各損傷の形状、出血の状況、着衣の損壊状況等を仔細に検討してみると、被告人は致命傷を受けて畳のうえに倒れ瀕死の状態にある、もしくはすでに死亡している大久保の身体、着衣にさらに刃物で損傷を加えた疑いが濃い。そして前記文化庖丁の血液付着の状況を合わせ考慮すると、被告人はその際に右文化庖丁を使用した可能性が大きい。

2  犯行当時の被告人の精神状態について

(一)  被告人は「本件犯行の直前に、大久保が被告人に対し文化庖丁をもつて攻撃を加えるような態度に出た。」旨供述しているが、そのような状況が現実にはなかつたことは前述のとおりである。ところで、被告人の法廷における挙措言動、被告人が未決勾留中に作成した数通の上申書等に明らかなように、被告人は現在右のような大久保からの攻撃が現実にあつたという不動の確信(妄想)を持つている。被告人は、犯行後まもなく被告人を逮捕した警察官に対し、「先にやらなければ自分が殺された。」旨述べている。この点からみると、すでに犯行の当時において大久保からの差迫つた攻撃という被害的状況を妄想し、右妄想に支配されて本件犯行に及んだ疑いもないではない。けれども他方、被告人は、犯行直後、苦悶している大久保を前にして、第一発見者佐竹六郎が「どうしたんだ。」と声をかけたのに対し、「俺の金をとりやがつた。」と言つている。被告人の供述する被害的状況の妄想内容自体が逮捕時から今日まで次第に変容・拡大し、且つ詳細化していることからすると、犯行当時は金を盗まれたという怨恨の念のみしかなく、右のような差迫つた被害的状況の妄想は本件犯行後に形成・発展させられたものとも考えられる。当裁判所は、前者のような疑いの余地を残しつゝ後者のように、怨恨から殺意を抱いたものと認めた。もとより、この怨恨の念にせよ、之に基く殺意とその実行にせよ、いずれもパラノイアの発現に他ならないことは前に判断したとおりである。

(二)  鑑定人市川達郎は、被告人の犯行当時の精神状態について「被告人は元来顕揚欲が強く、妄想様曲解をなし易く場合によつてはパラノイヤといわれる段階にまで発展する傾向を有する性格異常者である。本件犯行は自己の大切な金を被害者に窃取されたと即断したことによつて生じた怒りと、被害者より身の危険を感じた上の防禦的心理機制により行われたものであろう。正常心理学的に了解可能である。」と鑑定している。

たしかに、被告人の人格には、妄想に関する点を除き、現在に至るまで崩れがないと言える。少くとも限定責任能力を認めるべきであるという検察官の主張は、パラノイアに対する医療の現状と被告人の社会的危険性を考慮する限り魅力あるものである。

けれども、被告人は前述した中尊寺国宝華鬘の窃盗事件に関する無罪主張を契機に、警察、裁判所や中尊寺の結託、中尊寺官長代理や担当裁判官の横領等を妄想し、あるいは自分の妻や長男の死をもすべて右事件に結びつけるなど、あらゆる荒唐無稽な妄想を拡大発展させて強固な妄想の体系を築き、昭和四四年ころ仕事(工員など)をやめてからは再三にわたつて右事件の再審を請求し、仙台の裁判所へ頻繁に出向くなど、全生活を無実主張に集中し、この間、再審請求にからんで接触した弁護士会担当者や裁判所書記官さらには自分を養つてくれている息子龍三の家族に対しても、自分の意に満たないところにはすべて自分の妨害者、さらには自分を陥れる者自分に危害を加える者を妄想し、これに対する反撃を企図していたものである。本件犯行に使用されたクリ小刀も、右のような危害に対する防衛・反撃のため昭和四六年ごろ買い求め、入念にすべり止めを施すなどして持ち歩いていたものであつた。このようにして、被告人の本件当時の精神状態は、一〇数年余にわたつて継続的かつ強固な被害妄想を抱き、自分の意に満たないところには悉く不利益な、もしくは被害的解釈を積み重ねてますます妄想を発展させ、説得されても何ら反省顧慮することがないばかりか逆に自分の妄想を強固なものにするという明らかにパラノイアに特徴的なものを有している。

右のような被告人の本件当時の精神状態と、先に触れた大久保の身体・着衣の損傷状態から推定される被告人の本件犯行状況の異常さ、ならびに犯行直後において被告人に声をかけたアパートの管理人に対し、台所の洗面器で血のついた手等を洗いつつ小声で笑い声をたてながらうすら笑いをうかべていたという状況、さらに被告人の当公判廷における挙措言動の異常さ等(とくに、被告人が本件犯行について一片の反省の情もみせず、ただひたすら自己の前記無実主張の継続に固執し続けていること、本件犯行の直接の発端となつた現金一一万五、〇〇〇円盗難の一件についても大久保と警察との結託、警察官の横領や大久保に対する拷問、大久保の被告人に対する刃物による攻撃などの抜き難い妄想を発展させていることなど)を総合すると本件犯行は、単に、大久保に対する怒りと防禦的心理機制による正常心理学的に了解可能な行動というよりはさらに進んで、大久保を以つて自己の無実主張に対する妨害者もしくは、迫害者と観念し、前記無実主張に関わる被告人の妄想体系に組み入れた結果、右妄想体系に支配されて敢行した行動というべきである。

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